空前の考古学フィーバー!
佐賀県の中心部から、北東に10Kmほど行ったところに、今から30年ほど前の1989年2月23日に、全国紙である朝日新聞の一面トップを飾るという考古学史上異例とも言える報道をきっかけに、日本列島に考古学フィーバーを巻き起こした、ひとつの遺跡があります。
佐賀県の重要な観光資源として、全国から多くの観光客を迎え入れる中、現在も発掘整備が進んでいるその伝説の遺跡こそ、今ではその名を知らない方がいないほど有名になった「吉野ヶ里遺跡」です。
吉野ヶ里遺跡がここまで有名になった背景には、数々の偶然が重なったことや、弥生時代の遺跡ということだけで、時代的なズレがあったにも関わらず、「邪馬台国」や「卑弥呼」という活字を躍らせ、古代ロマンを仰ぎたてたマスコミ報道による効果が絶大だったことが、後に語られています。
日本中を巻き込み一気に火がつき大フィーバーとなった吉野ヶ里遺跡は、報道2ヵ月後のゴールデンウィークには、連日10万人を越える見学者が訪れるという、空前の賑わいを見せました。
当時、この熱狂振りを伝えたテレビの画面には、吉野ヶ里周辺を埋め尽くす人と車の行列が映し出されており、この光景は今でもわたしの脳裏に焼きついています。
風前の灯火だった「吉野ヶ里遺跡」
そんな吉野ヶ里遺跡ですが、発掘当初はここまで話題となり、現在のような姿になるとは、誰も想像できませんでした。
そもそもこの吉野ヶ里の騒動は、工業団地造成にあたっての事前調査による発掘がきっかけだったわけで、以前より出土品などからこの吉野ヶ里丘陵一帯に遺跡があるのでは…との指摘はされていましたが、1982年から始まった事前調査と1986年から3年間行われた本格調査により、吉野ヶ里丘陵の広範囲にわたり遺跡が広がっていることが判明しました。
この調査内容を受け、市民団体や考古学関係者などが、吉野ヶ里遺跡の保存に向けての活動を行い、冒頭のマスコミ報道による大フィーバーもあり、この遺跡の行方が大きく方向転換されました。
報道直後にすでに決定していた工業団地計画が見直し縮小となるとともに、この吉野ヶ里遺跡は、1991年には早くも特別史跡となり、その後1992年10月27日には、世論を受けるかたちで吉野ヶ里周辺の保存整備計画が閣議決定され、2001年4月21日には、国営の「吉野ヶ里歴史公園」として、新たなスタートを切るまでとなりました。
最終的には、東京ドーム約25個分にあたる、117ha(国営54ha、県立公園63ha)という、国内最大級の歴史公園の完成を目指し、現在も発掘調査や復元工事が続けられています。
吉野ヶ里の救世主「卑弥呼」!
本来なら工場誘致のために埋もれてしまうはずだったこの吉野ヶ里遺跡が、現在のような姿にまでなったのには、吉野ヶ里遺跡が、ムラからクニへの変遷をよく示していることや、弥生時代の環濠集落として最大規模のものであるということには疑う余地もありませんが、やはり前述のように、考古学史上常に論争が繰り返されていた、「邪馬台国はどこにあったのか?卑弥呼はいずこに?」というテーマが、遺跡の保存に一役かったということが、後の検証で明らかになっています。
この日本人の心をくすぐる邪馬台国論争は、マスコミの格好のネタであり、そんな流れに吉野ヶ里遺跡も上手く乗った…というのが、奇跡の始まりでした。
発掘された遺跡の多くは、時代検証により弥生時代中期のものであり、専門的な立場の方ならば、年代的に邪馬台国と結びつけるのは難しく、出土品などから規模的にも邪馬台国とするには小さ過ぎる…ということはわかっていました。
しかしながら、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)に登場する邪馬台国の描写に、この遺跡が大変酷似している…という、主観的見解だけが大きくクローズアップされ、この遺跡を一躍表舞台へと押し上げていきました。現在で言うところの、インスタ映えする写真にSNSで火がついたような状況でした。
早々に建てられた想像上の復元建築物も、実際には遺跡とは全く関係ない位置に建てられたものでしたが、古代ロマンをかきたてるには充分すぎるほどのインパクトがあり、報道合戦の最中一気に注目の的となり、人気が人気を呼んでいきました。
そんな流れの中、本来ならば、工場団地の下に眠っていたかもしれないこの吉野ヶ里遺跡が、ある意味マスコミに助けられ、邪馬台国論争、考古学ブームという大きなうねりの中、奇跡的に蘇ったことは、過程はともあれ今となってはとても喜ばしいことだったと思えます。
その想いは、この吉野ヶ里歴史公園を訪ね、実際に公園内をひとつひとつ歩いてみることにより、より一層深まっていきます。
古代ロマンに胸躍らせる歴史公園
吉野ヶ里遺跡が、国内最大級の遺跡だという表現には、賛否両論があります。墓列が多いことや、いくつかの集落を合わせた面積でうたっているなど意見も様々のようですが、私のような一般人にとっては最大級かどうかなどということよりも、弥生時代という遥か彼方の歴史上の世界の生活文化が、これだけのスケールで想像をめぐらせながら擬似体験できる…という、ただそれだけですばらしい遺跡に思えます。
申し訳程度に復元建築物がポツンポツンと建つような、街中に埋もれてしまった遺跡や、立て札だけで野ざらしとなっている遺跡を思えば、この吉野ヶ里遺跡がどれ程リアリティーにあふれた場所で、夢に心躍らされる施設かは、語らずとも一見すれば明白です。
現在では、復元建築物こそ推測・想像の域を超えませんが、位置や大きさなどは、遺跡から正確に導き出されたものとなっており、それらの建築物を巡っていくだけでも、古代ロマンに胸を膨らませずにはいられない遺跡となっています。
この吉野ヶ里遺跡を、歴史公園として整備するにあたって、『弥生人の声が聞こえる』がテーマとして掲げられましたが、現在のこの公園の姿は、まさにそのコンセプト通りであり、弥生人の息遣いが伝わってくる素晴らしい公園となっています。
リアリティーあふれる!環濠集落
ご存知のように弥生時代は、その時代名の由来にもなった、東京の本郷「弥生町」(現:東京都文京区弥生)から出土した「弥生式土器」の利用や、「水稲耕作」の開始による定住生活の始まり、それにともなう貧富の差の拡大や部落間抗争などが始まった時代として知られています。
そんな昔学校で習った知識が、この遺跡を巡っていくうちに、ひとつひとつ思い起こされていくとともに、今まであまり描いたこともなかった弥生時代の姿が、頭の中に広がっていくようでした。
中でも特徴的だったのが、総延長 2.5km 深さ 5~6mにも及ぶ、V字型に掘られた「外濠」や城柵の数々、そして見張りや威嚇の為の「物見櫓」などにより造られた、外敵から集落を守る為の「環濠集落」 (かんごうしゅうらく)という、そのスタイルでした。特にこの吉野ヶ里遺跡の環濠集落は、濠が二重に巡らされているというもので、かなり厳重な防御体制が布かれていたことがわかります。
そしてここの素晴らしさは、ただ柱の跡に穴が開いていたり、復元模型を眺めるというのとは異なり、実物大で復元されたこの集落の姿から、環濠集落というものがどういうものだったのか?ということを、直にうかがい知ることができるという点です。改めて自分の体で、実際に見て・歩いて・感じることの素晴らしさを、この遺跡は教えてくれます。
是非とも濠の中へ入ったり、櫓に上ったり、遠くから眺めるだけでなく、全身で遺跡を通じて弥生文化を感じ取ってもらいたいと思うしだいです。
また環壕集落ゾーンの北内郭にある「主祭殿」などの楼閣の大きさにもビックリさせられました。想像上とはいえこのような建築物が、江戸時代でもなく、鎌倉や奈良時代でもなく、道具が乏しかったとされる弥生時代に造られていたと思うと、どこか原始的で何も無いようなイメージでいた弥生という時代が、実は想像以上に発達した時代であったことを改めて認識させられました。
いずれにせよ、実際に体で感じるということは、教科書や歴史の本を読んで想像することとは全く異なり、とても素晴らしいことです。是非とも子供と一緒になって、いろいろと歩き回りながら、肌で感じ取ってください。
実に興味深い!甕棺墓列
そんな吉野ヶ里遺跡の環壕集落ゾーンの北エリア一帯には、歴代の王の墓と考えられる「墳丘墓」(ふんきゅうぼ)や、土葬の一種である「甕棺墓列」(かめかんぼれつ)が復元されています。特に、2列で長さ600mにも及んだというこの甕棺墓列は、2,000基を超える甕棺が見つかったとされており、その光景を映し出すかのように、掘られた穴の中には一つ一つ甕が置かれ、リアルに再現されています。
この甕棺墓列からは、首が無い者や矢じりが刺さったまま埋葬された者などの人骨も見つかっており、当時の戦闘の凄まじさを如実に物語っています。また多数の副葬品や、当時の日本人の体系とは異なる、180cmを超える長身の人骨なども出土しており、とても興味深い発見もありました。
甕棺墓列自体、まだまだ日本ではとても珍しいものですので、是非とも北のエリアまで足を運んでもらいたいものです。
国営でよかった…
この吉野ヶ里遺跡を訪れてみて感動したのは、実はリアリティーあふれる復元建築物と、壮大なスケールで弥生文化を再現する歴史公園の素晴らしさだけではありませんでした。ボランティアの方を含め、この歴史公園内で働く方々の人柄の良さにも感嘆しました。
古代衣装を髣髴させる服を身にまとったガイドの皆さんは、いずれもすれ違いざまの挨拶から、公園内の説明はもちろんのこと、様々な疑問難問に対しても、ひとつひとつ親切丁寧に説明してくださり、とても好感のもてるものでした。
子供達を集めて古代の生活を再現する教室などを開いている姿は、実に見ていて喜ばしい光景でしたし、行き届いた公園内の整備状況や、広大な敷地による開放感、周囲に近代的な建築物が見えない立地条件など、あらゆる点において、実に気分良く見てまわれる公園でした。
まだまだ発掘が進んでいく吉野ヶ里遺跡では、この先どんなものが出土し、どんな建築物が復元されていくのか伺い知ることはできませんが、とにかく大人も子供も楽しみながら歴史を学べる場所であり、古代ロマンに夢を膨らませることができる、とても素晴らしい施設であることは間違いありません。
とかく税金の無駄遣いが騒がれる公共施設が多い中、「国営でよかった…」と素直に思える場所であり、九州に足を運んだ際には、是非とも吉野ヶ里遺跡がある、この「吉野ヶ里歴史公園」に立ち寄ってほしいものです。考古学ファンならずとも、きっと楽しめるはずですよ!