源頼朝の墓とは?
神奈川県鎌倉市の 大蔵幕府跡 が一望できる大倉山の中腹にある、鎌倉幕府 初代征夷大将軍 源頼朝の墓。亡骸が葬られてからは「法華堂」と呼ばれていた、1189年に頼朝が聖観音菩薩像を御本尊として建てた「持仏堂」の跡にあり、高さ186cmの5重の層塔は、江戸時代の1779年に薩摩藩主 島津重豪が建てたもの。日本遺産『いざ、鎌倉』の構成文化財の1つ
建久9年(1198年)12月27日に、相模川の橋の落成供養の帰路に病を患いそれが原因で建久10年(1199年)1月13日に享年53歳で亡くなったと伝わるが謎も多く、稲村ヶ崎での落馬説や溺死説・暗殺説などもある。また死の2日前に出家している。
国の史跡 となった1927年4月8日当時は、この中腹の層塔と塚を『源頼朝墓』、石段下の頼朝を祀る「白旗神社」が建つ明治の廃仏毀釈で江戸期の法華堂が破却された地を『法華堂跡』として別々に指定していたが、その後の研究により当初の法華堂は中腹にあったことが明らかとなり、2000年に『法華堂跡(源頼朝墓)』として統合された。
さらに2005年の発掘調査により、東に50mほど行った所に 北条義時の墳墓堂 とされる法華堂跡が特定され追加指定されたことから、2006年7月28日に『法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)』となっている。尚、北条義時法華堂跡の北側には、宝治合戦で自刃した三浦泰村一族の墓と言われる「三浦一族のやぐら」や、古墳時代の横穴墓を転用した「島津忠久の墓」「大江広元の墓」「毛利季光の墓」がある。
また頼朝の墓のすぐ右手には、3歳で生き分かれ高知で非業の死を遂げた実弟の源希義の墓所より「希義公の土と石」が添えられ、その横には「元祖島津豊後守忠久石塔道」が建つ。
源頼朝の墓 の 広告
階段下でスルーせずに頼朝公のお墓にお参りを!
53段の石段の先に眠る、毎年4月13日に「源頼朝公墓前祭」が執り行われる鎌倉幕府 初代征夷大将軍の墓に手を合わせよう! ついでに清和源氏の笹竜胆紋も覚えよう! また北条義時の法華堂跡、さらには三浦泰村一族の墓や島津忠久の墓・大江広元の墓・毛利季光の墓にも手を合せよう!
国の史跡『法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)』
山裾の白旗神社の地には、明治の廃仏毀釈まで法華堂が建っていたことから、頼朝の墓と法華堂の位置関係が曖昧だったけど、当初の法華堂(持仏堂)は墳墓と同じ中腹にあったことがわかっているよ!
800年の時を超え再会した頼朝と希義!
源頼朝の墓のすぐ横に、源義朝と正室 由良御前という同じ父母のもとに生まれながら3歳で生き分かれ高知で非業の死を遂げた実弟の源希義の墓所の土と石が、800年の時を超え兄弟を再会させるべく互いに交換する形で1994年に添えられているよ!
源頼朝の墓 の 魅力
源頼朝の墓 の 見頃・おすすめ時期
1月 | 2月 | 3月 | 4月源頼朝公墓前祭 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 |
源頼朝の墓 の 基本情報
名称 | 源頼朝の墓 |
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読み方 | みなもとのよりとものはか |
英訳 | Minamoto no Yoritomo Tomb Tomb of Minamoto no Yoritomo |
郵便番号 | 〒248-0004 |
所在地 | 神奈川県 鎌倉市 西御門2-5 |
駐車場 | なし |
お問合せ | 0467-23-3050(鎌倉市観光協会) |
アクセス | 現在地 からの ルート と 所要時間 |
登録・指定 | 日本遺産 国の史跡 ※法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) |
選定・表彰 |