駒立岩とは?
香川県高松市牟礼町にある、軍記物の『平家物語』に登場する、那須与一が「南無八幡大菩薩願わくは…」と祈りを捧げ、女官を乗せた平家の船の舳先に掲げた船上の扇の的を射つ際に、海へと馬を進め足場を固定すべく利用したとされる岩。すぐ横に「こま立石」の石標が建つ。
また80m程離れた交差点に建つ民家の一角に、この岩に向かって祈りを捧げたと伝わる「祈り岩」もある。
「源氏の三与一」のひとりで、幼い頃から弓の名手として幾つかの伝承が残る那須与一は、本名を宗隆(宗高)といい、後に資隆と名乗ったとされる。
那須資隆と新田義重の娘との間に生まれた子で、那須氏の2代目当主とされているが詳細は不明。栃木県大田原市では、郷土の誉れとして慕われている。
駒立岩の見所
駒立岩と扇の的
左奥の水門横の電柱の下に、女官を乗せた平家の船が舳先に扇を掲げた絵がある。このような感じだったのでは…とのことだろうが、この扇を射るべく那須与一は海へと馬を進め、この駒立岩で足場を固めたとされる。それでも船は波に揺られ扇の的は上下左右に不規則に揺れていたわけだし、気まぐれな海風も吹いていただろうし、どんなに腕があっても一発勝負では天のみぞ知るという感じだったのでは…ということが、この場を訪れるとよくわかる。
扇の的
物語上では、駒立岩から扇の的までの距離は、弓矢の有効射程距離を上回る80m前後だったとされている。よくまぁ義経は平家の申し入れを受けたなぁ~と思う。
祈り岩
駒立岩から80m程離れた交差点に建つ民家の一角に、那須与一が祈りを捧げたと伝わる「祈り岩」がある。見逃しそうになるが、これが本物!
いのり岩
実は紛らわしいのだが、駒立岩の近くに「いのり岩」という岩がある。なんでも本物の「祈り岩」が埋もれて駒立岩から見えないということで作ったレプリカだとか。ややこしい…
駒立岩 探訪記
物語上とはいえ凄い!
左奥の水門横にある絵の場所が、女官を乗せた平家の船が舳先に掲げたとされる扇の的の方向らしいが、もちろん物語上の話で定かではない。
那須与一が射るために海へと馬を進め、足場を固定すべく利用したのがこの駒立岩。それでも波に揺られる船上の的を射るわけで、どんなに腕があっても一発勝負では天のみぞ知るという感じだったのでは…と思う。
しかも物語上ではその距離は、弓矢の有効射程距離を上回る80m前後だったとされる。波の周期を読み、上下動を読み切って射ったとしても、海風も吹いたことだろうし、やはり神がかり的なことだ。
もし本当にこの場でそういうことがあったのならば、受けて立った義経の懸けはかなりのものだったわけだし、敗軍の平家にしてみれば一矢報いる良い趣向だったと思う。
後世これだけ語り継がれているのだから尚更だろう…と思ったが、成功しなかったらここまで有名にはならず、知る人ぞ知る“平氏一矢報いる”の記述だったかもしれない。
そんなことを考えていると妄想は膨らむわけで、三国志に出てくる黄忠や呂布だったらどうだったのか? 当時一番の弓の名手は誰だったんだろうか? などと考えてしまう。
近くに、那須与一が「南無八幡大菩薩願わくは…」と祈りを捧げたという「祈り岩」があるが、この状況で一発勝負なら、それは祈ったよなぁ~
潮汐により見えないこともあるので注意!
潮の満ち引きにより水没して見えなかったら残念! 他を巡って時間を変え訪れよう!
「いのり岩」ではなく「祈り岩」を見逃すな!
近くの「いのり岩」はレプリカ!那須与一が祈りを捧げた「祈り岩」を見逃さずに!
平家物語の那須与一の立場になってみよう!
水門近くの扇の的を見ながら、那須与一になったつもりでイメージを膨らまそう!
駒立岩 編